京阪間の歴史
水運の発展に

(京都市内の高瀬川も角倉了以によるもの)
2004年 1月10日更新
| 角倉了以(すみのくらりょうい)(1554〜1614) |
角倉了以(本名:吉田与七)は桂川(大堰川)の保津峡区間の開削や高瀬川の開削で知られています。家が質屋・高利貸し(土倉)を営んでいて裕福だったことが、莫大な金のかかる川の開削に大きく関係しています。
角倉了以の行った事業は、大堰川、高瀬川の開削のほかに、富士川の開削、朱印船による貿易などがあります。
| 大堰川の開削 |
開削工事の第1弾が、大堰川。桂川の上流にあたるこの川の保津峡の部分は岩などによって、船が通れない状態であった。1604年に開削を計画、2年後の1611年に工事完成。工事完成後は丹波と山城の物流に大きな変化を与えた。
現在、保津川下りが京都観光の1つになっているが、これも角倉了以が保津峡を船で通れるようにしたことによりできることである。

(保津峡)
| 高瀬川の開削 |
1615年の京都方広寺の大仏殿再建にあたり、鴨川を資材運搬のために使用した。鴨川を使用するため、鴨川の川底を深くするなどの工事を行っている。しかし、鴨川は水位に問題があったようで、水運に使うためには適さない川だったらしい。それが高瀬川の開削へと結びついていったらしい。高瀬川の開削により、京都と大阪の間の舟運が大いに発展した。
高瀬川の起点付近である「一の船入」には高瀬舟が復元されているほか、角倉了以邸跡碑が建てられています。また、高瀬川の下流にかつてはあたっていた伏見の濠川にも、「角倉了以をたたえる碑」や「角倉橋」があります。
(高瀬舟と邸跡碑)

(伏見区内にて)
| 大悲閣 |
晩年の角倉了以は嵐山の大悲閣に住む。この大悲閣は角倉了以が大堰川の工事で命を落とした人を弔うために建立したもの。現在、大悲閣には角倉了以の像が置かれており、一般に公開されている。大悲閣からは川、そして山の向こうに京都市内を一望することができ、晩年の角倉了以はこの風景を見て過ごしたのではないだろうか。

(大悲閣)
| 参考資料 |
「週刊日本の街道73 東海道5 桑名から京・三条大橋へ」
2003年10月21日号 講談社発行
聖母女学院短期大学・伏見学研究会編「伏見学ことはじめ」
2001年 4月10日再版 同朋社発行
「大悲閣」レジュメ 大悲閣配布