京阪間の交通
京阪間の古い道「京街道」について
(枚方宿の一角にて)
2009年10月11日更新
| 京街道 概要 |
その名の通り、大阪から京都へと通じる道。但し、京都ではこの街道のことを「大坂街道」と呼ばれたらしい。淀川の左岸(守口・枚方など)を通っていました。江戸時代には実質的に東海道の延長区間の扱いだったようで、1615年の「大坂夏の陣」以降、幕府は東海道を大坂まで延長したようです。
ただ、有名な芸術作品(名称失念)が「東海道五十三次」としてしまったために東海道は五十三次(日本橋〜三条大橋)として広まったようです。私もこのサイトを作るまで東海道は大坂までというのは知りませんでしたから・・・。
東海道を五十七次とした場合、宿場町は54番目が伏見、55番目が淀、56番目が枚方、57番目が守口です。
大津を出た東海道は追分(京阪追分付近)で京都へ行く道と大坂へ行く道(「大津道」ともいうらしい)に分かれていたようですが、伏見で再び合流していました。ただ京街道としての伏見〜京都・大津間の扱いが資料によって違っていて、東寺で西国街道と接続しているように表している資料、三条大橋で東海道と接続しているように表している資料(東寺は経由せず)、伏見から京都を通らずに追分で東海道に接続しているように表している資料、さらにはこれらいずれも京街道であるとしている資料もあります。
ということで、このページでは伏見〜高麗橋を紹介いたします。京都〜伏見・淀(竹田街道・鳥羽街道など)は別ページで。
豊臣秀吉が文禄年間(1592〜1597)に淀川左岸の堤防を改修し(これがいわゆる「文禄堤」)、堤防上に陸路を開いたのに始まるそうです。元々は京橋口が大阪側の起点だったが、江戸時代に高麗橋東詰へ移る。
明治に入り、京街道は国道2号になります(明治18年)。この国道2号線は江戸時代の東海道で三条大橋を経由し、さらに大阪まで続くものでした。ちなみに国道1号は東京〜横浜間。
大正9年の道路法では、国道2号は東京〜鹿児島間となりましたが、京街道も含まれています。昭和27年の改正道路法で国道1号になりましたが、京街道は京阪国道(現在の国道1号・府道13号)にとって変わられ、主要道路から外れてしまいました。

(京街道略図)
※このページでは「京街道」と呼称していますが、京都から大阪に向かって記述するようにしています。
←京都〜伏見の街道 京街道その2(枚方〜守口)→ 京街道その3(守口〜高麗橋)→→「ちょっと雑学」「参考資料」もその3で
| 京街道散策 |
京街道は現在の府道京都守口線・国道1号線(枚方北部など一部区間をのぞく)に近いルートをとっています。街道は淀川の堤防上を通っていたところもかなりの区間であったりしたようです(いわゆる「文禄堤」)。
| ▼伏見 (京都市伏見区) |

(伏見〜淀)
伏見桃山城の城下町や酒蔵の町、幕末の動乱や戊辰戦争の舞台ともなった町ですが、東海道を五十七次とした場合の54番目の宿場町でもあります。大坂・京都・大津・奈良への街道が出ており、また淀川などの水運でも栄えていました。
参勤交代の大名も伏見を利用したようです。京都の朝廷とのつながりを大名が持つことを幕府が嫌ったのが原因で、京都を通らずに大津道経由で江戸へ向かったそうです。
宿場町としては、本陣・脇本陣が置かれていました。
| ▼伏見〜淀のルート (京都市伏見区) |
新高瀬川の河口付近から横大路運動公園のあたりまで宇治川の堤防を進んでいます。この区間には京街道・大坂街道であることを示すものは何もありません。
運動公園の前で京阪線を横断してからは、競馬場への陸橋をくぐる地点に何かがあるのが京阪電車の中から見えますが、どうやら鳥羽伏見の戦いに関する碑のようです。

(横大路)
運動公園付近から宇治川から離れますが、明治の河川改修までは京街道に沿って宇治川が流れていました。淀・納所付近は河川改修で明治以降大幅に地形が変わっていますが、納所交差点手前に「淀小橋旧跡」碑が街道にあり、京街道も河川改修の影響をうけています。

(淀小橋跡地)
なお、桂川の東を通る道(鳥羽街道)を大坂街道とする資料もあり(大手筋を西に進めば鳥羽街道に出る)、京街道は複数のルートがあったことがわかります。
| ▼淀 (京都市伏見区) |
東海道を五十七次とした場合に、55番目の宿場となる町。また、城下町でもあります。地名は、水の流れがゆったりと淀んでいたことに由来(三川合流が今の山崎・橋本とは違って淀付近にあったことが関係)。
街道は、京阪淀駅付近では駅の南側を通っています(郵便局が沿道にある)。一部区間を路線バスが走るのですが、道が広いとはいえないので、運行は大変そうです。また、淀新町バス停のそばには、淀町道路元標(ただし、「元標」の部分は埋まってます)が残されています。
さて、淀は陸運・水運ともに京阪間の中継地として重要な位置を占めていたようです。宿駅として整備されましたが、旅篭の数は他の宿駅に比べると少なく、また本陣や脇本陣がなく、小規模な宿駅だったようです。

(淀)
| ▼淀〜八幡のルート (京都市伏見区・八幡市) |

(淀〜八幡略図)
(旧淀大橋があったところ) |
淀を出発した京街道は、もともとは現在の京阪電車に近いルートを通っていたようで、明治22年ごろの地図を見ると現在の宇治川流路と淀川(現在の桂川にあたる区間)に挟まれたところを通っていたことがうかがえます。 宇治川右岸の旧道は、淀町道路元標のあるところから美豆方面へ直進します。道路元標のあるところは明治時代までの木津川の堤防だったと思われるところで、微高地になっています。また、ここから200mほどの区間は古地図などを見ると、旧「淀大橋」が架けられていたところのようです。橋の名残はルートぐらいなもので、淀小橋のような記念碑などはないようです。また、旧「淀大橋」の大阪側入口付近も微高地になっています。 旧「淀大橋」から大阪側へ進むと、やや街道らしい風情の残るところを通り抜け、京阪電車の車庫の横を通っていきます。京阪線の下をくぐるところでルートから外れ、府道京都守口線へ進む道となります。車庫の横なんて、とても街道とは思えないような道です。この先、本来の街道はまっすぐ八幡の北側を抜けて橋本へ行くのですが、河川改良の結果からか、旧来のルートは消滅しています。京阪線の線路をくぐってからも、農道として道は続いていますが、京滋バイパスの下で行き止まりです。 この区間は道標や記念碑などは見つけられませんでした。 |
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| (旧淀大橋があったところ) | |
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| (淀から八幡へ) | |
| ▼八幡 (八幡市) |
宇治川・木津川と2つの川を渡る御幸橋も、明治以降は京街道の一部分です。天皇が石清水八幡宮にご参拝(御幸)されたことが橋名の由来です。「ごかうばし」と橋に書かれていることから、現在のものは戦前のものであることがうかがえます。ただし、今の橋はまもなく新しい橋に架け替えられるようですが(架設工事中)。
御幸橋経由の京街道ですが、もともとは宇治川御幸橋北詰から橋本へまっすぐ進んでいたようです。枚方の「鍵屋資料館」展示資料や書籍「京街道」でも、このように表示されてます。これは明治に入って三川合流地点が変わり、このあたりの地形が大幅に変わったことによって、街道もルートが変更されたものです。
ここは高野山へと続く東高野街道の分岐地点でもあります。
| ▼橋本 (八幡市) |

(橋本付近略図)
御幸橋から土手の上の府道を歩いていると、堤防の土手に1本の大きな楠の木があります。ここから堤防を下りると、土手の下に京街道のルートが再び現れます。
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| (楠の木) | |
土手を降りてしばらくは土手のそばを通り、八幡宮の常夜灯の前を通りつつ、ほどなく大谷川を渡ります。八幡宮の常夜灯は、さすが石清水八幡宮のおひざもとです。
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![]() (橋本奥ノ町付近) |
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大谷川を渡ると、八幡宮への道標の前を通ります。このあたりは八幡宮への登山口がいくつかあります。また、標識を過ぎると、街道らしい風景が色濃く残る橋本地区中心部に入っていきます。
![]() (大谷川を渡るあたり) |
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| (八幡宮への道標) | |
![]() (橋本北ノ町付近) |
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橋本では京阪橋本駅前などに道標があり、「柳谷・・・」(たぶん柳谷観音のこと)「山さき・・・」などと対岸の地名をおぼろげに読み取ることができます。これは、橋本から山崎へ直接行くことができた渡しがあった頃の名残。いまは渡しも橋もないので、遠回りしないと行けません。
橋本は遊郭として賑わったところですが、現在では静かな街になっています。しかし街道沿いに建つ家の2階を街道からチラッと見ると、街道に面して廊下があるように見えます。
京都府と大阪府の府境から枚方市に入ると、淀川の堤防上を通っていて、堤防上を走る府道京都守口線に合流します。
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| (橋本駅前の道標) | |
![]() (山崎・柳谷への道標) |
![]() (橋本の建物) |
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| (街道が通る橋本の様子) | |
| ▼楠葉 (枚方市) |

(楠葉付近略図)

(淀川堤防上)
淀川堤防(府道京都守口線)を進んだ京街道は、淀川34.0km距離標のすぐ南で府道とわかれ、京阪線をくぐった後に京阪線の東側を進むルートとなります。この区間で府道を通るときは歩道がないので、車に十分注意する必要があります。
京阪線の東側に出てからしばらくは何もないですが、やがて舗装が肌色になり、八幡宮への古い道標も見ることができます。このほかにもこの道が京街道であることを示す、比較的最近造られたと思われる石柱があったりしますが、「旧京街道(旧国道二号)」と書いてあるものも。古い、落ち着いた街並みです。
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| (町楠葉地区) | |
このあと町楠葉1丁目で京阪線線路の方へカーブしますが、昔は京阪線を越えて堤防(府道)へ出ていたようです。しかし、現在はこの場所で京阪線を横断することができないので、飲み屋街を抜けて京阪樟葉駅北側でガードをくぐることになります。
ちなみに楠葉からも渡しが出ていたようです。現在はゴルフ場になっていて、面影を探すのは難しいかな?
| ▼牧野・御殿山 (枚方市) |
樟葉駅西側から大阪方面への府道は歩道があるので、対岸の風景を見つつ安心して歩くことができます。堤防から離れて少ししたところ(樋之上)で滑らかに左折する道がありますが、これが京街道です。この道を進むとすぐに船橋川にぶつかりますが、街道の橋はいまはないので、西側を走る府道京都守口線の楠葉橋を渡ります。
再び東へ進むと堤防下に八幡宮石柱があり、街道であることが想像できます。

(略図)
船橋川から牧野駅にかけて京阪線の横を通りますが(といっても線路の両側に道があって、どちらが街道かは不明)、古い建物が牧野駅付近に残っていたり、牧野駅前を流れる穂谷川に「淀川維持区域標」(北河内郡牧野村と書いてある)古い石柱があります。
この先は穂谷川に沿って南下し、途中で穂谷川を渡ります(「明治橋」で渡るのかな?)。そのあと阪今池公園で川とはなれ、三栗で府道京都守口線を横断し、三栗南で府道に合流します。この区間で京街道を示すものはありませんが、黄金野に「大阪」「京都」と刻まれた御神燈があります。

(牧野付近)
阪今池公園を過ぎた街道は、引き続き住宅街を進みます。

(黄金野・三栗)

(御殿山付近略図)
三栗南で府道京都守口線に合流した京街道は、磯島まで京阪電車の線路沿いに府道上を進みます。京阪御殿山駅北側にある踏切に「国道第二号路線」石柱があります。「高麗橋元標 六里」「北河内郡枚方町 二十六丁一六間」というように主な地点までの距離が書かれています。国道2号なのは、明治18年に京街道が国道2号になったからですが、京街道じゃなく国道2号だったことを示すものを残してあるのも珍しい。それにしても踏切内にあるのもなんか変・・・。

(国道2号石柱)
しばらく京阪電車と並んで南下し、磯島で府道から分かれます。分岐地点に比較的最近造られたと思われる京街道石柱がありますが、2001年9月訪問時には倒れていました。

(磯島)

(略図)
しばらくすると、天野川にたどり着きます。天野川を渡ると枚方市内中心部に入ります。天野川には街道の橋は現在はないので、すぐ西側にかかる府道の橋「かささぎ橋」を渡ります。
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| (磯島から枚方にかけて) | |
| ▼枚方 (枚方市) |
(枚方宿の新旧 後ろはビオルネ) |
枚方中心部でも京街道がはっきり残っています。京阪枚方市駅前(西口)と府道京都守口線(旧)倉紡前交差点(いつのまにか交差点名が変わっていた!2001.7確認)の間のところに「歴史街道」がらみで作られたと思われる新しい道標があり、京街道の場所をアピールするとともに、その場所が枚方宿の1つ、岡新町村であることも知らせています。 京阪線の高架の手前で右に曲がります。「右 大坂みち」と書かれた古い道標が立っています。これは「宗左の辻」で、直進すると磐船街道になります。 さらに歩き、本陣跡(現在は三矢公園)を見たりしながら京阪枚方市駅前から約15分ぐらいのところで、「枚方市立枚方宿鍵屋資料館」に到着。鍵屋は天正年間の創業・江戸後期は枚方宿を代表する船宿だったもので、2001年7月に資料館としてオープンしました。 なお、枚方宿内では京街道は何箇所かで角を曲がる(屈折した)構造である「枡形道」になっています。宿内が攻めこまれても直進は許さないとする意志を示すものだそうです。 |
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| (枚方宿) | |
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